WHAT'S NEW? 3/22


NEWS!!
エンジェル・ハンズ
遂に待望の電子書籍化、
絶賛発売中!!




■ENTRANCE■

編集前記エッセイ更新しました。(4/15) 

■STAGE1■


海洋冒険小説
Missing 3 〜中年南海漂流記〜」
遂に帰還なる!!

不定期連載
第26話“帰還”更新!!(6/14)

短編・掌編小説バックナンバーも多数!!
  ↓  ↓
「MELODY CALLING」 by 田村充義「1000億光年の彼方」by奥山六九 「友人28号」 by 逢谷人「最後の22分」 byワダマサシ「過去との遭遇」by逢谷人 「ナオミの夢」by逢谷人 「学校教育」 by奥山六九「ルームメイト」 by角森隆浩「潮騒のカセット(洋楽編)」 「潮騒のカセット(邦楽編)」 by 逢谷 人「赤いスイートピー」by 逢谷 人

■STAGE2■

田村充義氏の新作、
「聞き録り屋と買い取り屋」完結!

平凡この上ない僕が始めたアルバイトとは…?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ショートストーリー・連載小説バックナンバー多数!!

YUMIKOUUMINAOKIMICHIRUby 杉林恭雄

走る女ゾロ目の法則 宇宙の3犬人
女子アナオールスター  ゲンジツトウヒローのダックウォーク
30年目のガールズトーク
 by 田村充義



■EXTRA STAGE■

「THE LOOONIES' ADVENTURE」


THE LOOONIES


青丸をクリックすると物語のトップにジャンプ!
まだお読みでない方は、さっそくどうぞ!

ルーニーズの冒険
全編完結…。

壮大な旅の驚くべき結末とは?!

ストーリーを締めくくる 「エピローグ」
お見逃しなく!!


◆NEWS!!◆
11/11,12にシンガポールで開催された
「ANIME FESTIVAL ASIA 2011」
経産省のCOOL JAPAN BOOTHに
THE LOOONIESが出展されました!!






知られざる名曲誕生秘話
井上陽水 『少年時代』完結。




遂に待望の電子書籍化、
絶賛発売中!


EPISODE1 「エンジェル・ハンズ」

〜誰しも心の中に鬼がいる。ある人は鬼と闘い、他の人は鬼に愛を感じる〜
恵比寿五差路に近い一軒のロックバー。
店の“テンシュ”と常連客には、共通の不幸な過去が生んだ秘密の固い絆があった。
彼らが命を懸けて立ち向かう“鬼”とは?

EPISODE2 「ファイアー・ウォール」

〜悲劇の始まりは、1999年の大晦日だった〜
恋人と肉親を一度に殺められた少年は、
やがて仲間と出会い、理不尽な犯罪と闘う“防火壁”となることを誓う。
不完全な法律が、その許されざる犯人を野に放った時…。

EPISODE3 「タイム・キラー」

〜私は“愛”のために“時”を殺した〜
1980年に起きた少年誘拐事件。身代金を運んだ父親は、二度と戻ってはこなかった。
時効成立直後、発見された三つの遺体。
昭和と平成、二つの時代の運命が再び交差したとき
そこに見えた驚くべき真実とは?

SpinOutCut 「ディープ・フォール・ブルー」

〜誰かを想う気持ちは、晩秋になりやっと熟成する〜
Barエンジェル・ハンズを舞台に起こった小さな恋のエピソード。
それは、ほろ苦いカクテルの味がした。
シリーズ初のスピンアウトストーリーをお楽しみください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



◆このブログが気に入ったら、つぶやいてください。

2013年04月15日

中華の部

編集前記 BY ワダマサシ



今日はみんな大好きラーメンの話。
と言っても、私は毎日食べ歩くような知識豊富なラーメンマニアでも,、特別舌が肥えたグルメでもないので、まったく期待してはいけない。
どこにでもいるラーメン好きの主観と読み散らかしていただいた方がありがたい。

さてさて、なんでも全国のラーメン屋の総数は35000を越えると言う。
これは専門店の数であって、ラーメンが野菜炒めや炒飯などと同格のいわゆる中華料理屋は勘定に入れていないはず。にもかかわらず、この店数は結構すごいと思う。
日本中の駅の数が約9000だから、1駅に平均3.88店のラーメン屋が営業していることになる。
これに対し、書店の総数は約15000店、つまり1駅に1.66店。
どの街でも見かけるパチンコ店も約12000店に過ぎず、1駅に1.33店しかない。
余談中の余談だが、全国のCDショップの数は遂に700店を下回った。
つまり、CDを買おうと思ったら平均13の駅を探し回らなければならないと言うわけだ。
いったいどうすれば…。

さて、気を取り直して続けよう。
数では本屋もパチンコ屋も凌駕するラーメン店業界だが、新規開店も多いかわりに気がついたらあっと言う間に消える店もかなりあるように思う。
当たれば月商1000万も夢ではないと言う業態だけに、一発狙って参入する若者が日々凌ぎを削っているからに違いない。
そのせいか、新しく出来た店ほど目立たなければの思いが強く、どれも店名や看板のロゴに目いっぱい力が入っているように感じる。

力みは店名だけでなく、当然ラーメンそのものにも現れる。
素材にこだわり、レシピにこだわり、仕込みにこだわり、麺にこだわり、具材にこだわりを繰り返している内に、ハライチのお笑いのネタのように本来のラーメンからどんどん「関係なくなっちゃった」状態になっていると感じるのは私だけではないと思うのだが。
私はその力みが余計に感じ、最近のラーメン専門店がどうも苦手なのだ。
もちろん中には専門店ならではの完成度の高いお店もあるが、評判を聞き試してみるとまるで創作麺料理を食べているような気分にさせる店が多い。

日本人にとってラーメンはソウルフード。だから、革新的なアイデアなんかいらないんじゃないかしら。
それぞれが生まれ育った街で食べた、気取らない味に勝るものはないんだから。
私にとってのそれは、近所の「蕎麦屋の中華そば」だった。
今は閉店してしまったその店の品書きに「あたたかいお蕎麦」「冷たいお蕎麦」「丼もの」と並んでいた「中華の部」の中の“中華そば”が なんといってもナンバーワン。
蕎麦の修行をしたご主人の、ラーメンでもちょいと作ってみるかと言う力みのなさ、出汁と麺に関する基本の技術の確かさが生んだ忘れられない味。
ご馳走様と箸を置いた後に、残ったスープをもう一口だけもう一口だけとくり返し、結局底まで飲み干させる「後引き感」を、いまでも懐かしく思い出す。
そんなわけで、今でも蕎麦屋に入って「中華の部」の文字を発見すると、必ずと言っていいほどラーメンを注文してしまう。
中には外れもあるが、かなり高い確率で東京ラーメンの真髄のような力の抜けた名品に出会えると思う。

いまのお気に入りラーメンを出す近所の蕎麦屋を二店ほど紹介しておこう。
一店目は、西荻南にある“昌久”。
蕎麦も肴も間違いのない物を出すが、ここの中華そばが超絶品であることは、どのグルメサイトでもまだ紹介されていない。
もう一つは、上荻の八丁交差点に近い青梅街道沿いにある“桃蕎庵 こばやし”。
ここの蕎麦もなかなか素晴らしいが、やはり「中華の部」を是非トライしていただきたい。
何度食べても、私はこの二店のスープを飲み残して帰ることが出来ない。
以上は、あくまでも荻窪の蕎麦屋ラーメンをソウルフードとして育った私の個人的な感想なので、万人に共通する物ではないことをご承知おきの上、是非お試しいただきたい。

考えてみれば、音楽制作を本業とする私が文章を書いたりするのも「中華の部」のようなものだった。
そうと分かれば、もっとうんと力を抜いてみるか。


写真:上から「こばやし」のラーメン、「昌久」のチャーシューメン、こばやしのメニュー
posted by 「HEART×BEAT」事務局 at 22:04| Comment(0) | 編集前記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月17日

魔法の矢印を追いかけて

編集前記 BY ワダマサシ



久々に自転車の話だ。
久々なのは何も自転車の話に限らんだろうと突っ込みの声が聴こえるが、それはちょいと置いといて。
震災のあった昨年3月末から、都内の移動手段をほとんど自転車にしたのは以前にお話したが、あれからさらに不言実行を押し通し1年半が経った。
仕事場エリアの渋谷・新宿あたりはもちろん、最寄りのコンビニへの50mも、果ては埼玉県川口市への往復40kmの道のりだってペダルを漕いで行く。
さすがに雨の日と雪の日はその限りではないが、自分でもまあよく続いているものだと感心したりする。
近頃では、あたかもチャリが身体の一部のように感じられるまでになってきている。
何を大袈裟なと仰りたい気持ちはよく分かるが、実際チャリを降りて我が二本足で歩む時、そのあまりの遅さに驚き、脚に何か絡みついているような錯覚を覚えるほどなのだから。

最近そのチャリ道楽に、新たな楽しみが増えた。
長年使い続けたガラ携帯電話をiPhone5に変えたのだが、そのアプリに無料のナビゲーションソフトがあるのを知り、さっそくインストール。
ハンドルにiPhoneを据え付ける部材をサイクルショップで仕入れ、ナビ付きサイクリングを満喫している。
このアプリ「MapFan+」と言うものだが、普通の車載ナビとしても十分な機能があるのはもちろん、ありがたいことに自転車通行(徒歩)モードが付いているのだ。
従って、一方通行の逆走など、チャリならではのルートを案内してくれる。
その上、目的地の正確な方角を大きな矢印で画面に表示し続けてくれるので、推奨ルートを無視してただ矢印に従って走り続けるだけで、ほぼ最短距離をフリー走行することが可能!
ナビの示すルートはあくまでも幹線を基準にしているので、直線距離10キロの移動でも、実走行距離は13〜5キロになってしまうことがほとんど。
ところが、矢印を追いかけるフリー走行は、まるで鳥が空を飛ぶ気分と言うか、限りなく直線距離に近いので時間短縮になるのはもちろん、絶対に訪れる機会のないような縁の無い路地裏に私を導いてくれる。
通りがかった小さな商店街の外れに小粋な佇まいの銭湯などを見つけた時など、冷え切った身体を温めに立ち寄らずにはいられない。
そんな幸運に備え、バックパックにタオルと石鹸を忍ばせ都会をのんびり走るのは、単なる移動を小さな旅に変えてくれる魔法のようなものだ。
ただ一つ、やってみようかなと思われた方に申し上げておくが、ナビ使うとiPhoneの電池の消費は半端ないのでご承知おきを。
私はスペア充電器持参で臨んでおります。

これだけ毎日ペダルを漕ぎながらも私の体型が変わらないのは、ナビ頼りの小旅行の立ち寄り先が銭湯ばかりではなく、横丁の赤提灯だったり街角の中華料理屋だったりするせいなのは、自覚しているし大いに反省しているのだが…。

posted by 「HEART×BEAT」事務局 at 13:02| Comment(0) | 編集前記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月18日

今日の日に居並ぶ“色”を見よ!

編集前記 BY ワダマサシ



それにしてもさぼりすぎだろ、いくらなんでもほどがあるぞ。
日々そう己を戒めてはいたのだが、天性の自分に甘い性格も手伝い、呆れるほど更新に長いブランクが空いてしまった。
不思議なもので、その間FaceBookでもTwitterでも怠惰な沈黙が私のデフォルトになってしまったようで、ROMとして皆様の書き込みを大いに楽しんではいたものの、自らは貝のように口を閉ざす毎日がダラダラと続いていた。
夜更しして五輪観戦でもしてたんじゃないの?と問われれば思い当たるフシがないでもないが、その気になればいくらでも時間はあった訳で…。
仕事が忙しかったなんて口が裂けても言えないし…、だから胸を張って報告出来るような理由は特にない。ないので言い訳もいたしません、いや出来ません。
唯一再確認出来たのは、ブログやSNSなどネットでの表現なんてものは所詮子供の頃の日記にも似て、極めて脆弱な自主性に支えられた危うい習慣であり、長いにせよ短いにせよ誰にだって波ってものがあると言うことだろうか。
おいおい、それって女々しい自己弁護じゃないの、って?
はい、その通りです。申し訳ございませんでした。
私の気紛れをものともせず、毎日ここを覗きにきてくれる数多くの気の長い奇特な皆様に対し、まずは心からお詫びを申し上げます。
ごめんなさい!
今後もこんな事がしょっちゅうあるかとは存知ますが、どうか暖かく見守って下さい。

さて、私が無為にダンマリを決め込んでいる間にも時は情け容赦なく過ぎ去り、気が付けば平成24年もあと3分の1を残すのみ。
それどころか、己の人生も残り3分の1を残すのみとなっているではないか!
お前は90歳まで生きるつもりなのかと、知る人からはいっそう激しい罵声が飛んできそうだが、驚いたことにそんな節目の誕生日を近々迎えようとしている私なのだ。
周囲はからかい半分でそれを酒の肴にしようと企んでいるようだが、そうはいかない。
本人の自覚なんて皆無、ましてや赤いちゃんちゃんこなど全くの他人事と笑い飛ばしてはいるものの、確かに事実は事実。
百歩譲って肉体は節目を迎えようが、精神は一線を越えてなるものかと今から身構えている。
幸いなことに、そんなに構えなくとも我が頭の中は未だに夢見がちなガキの頃と大して変わっちゃいない。
坂本龍馬が31歳(マジか!)で亡くなったにもかかわらず歴史に燦然とその名を残したことを思えば、国家の危急存亡に酔っ払って物陰から毒づくのみの我が精神年齢の白痴的未熟さに、情けなくて涙が出るほどだ。
一方身体の方はと言えば、ほんの5ミリ程の段差に蹴躓きよろけることはあるものの、今も続いているチャリンコ通勤の成果か、酷使し気遣いしない割にはすこぶる良好。
しかし、それは人間ドックなど病気を見つける努力そのものを怠っているせいかもしれないのだが。
それにしても、今まで大病一つ患ったことがない事は神様にお礼を言わなければ。

たった一点だけだが、年齢が原因かもしれないと自覚出来る“好ましい”感覚の変化に最近気がついた。
それは視覚の変調。
眼鏡なしに新聞が読めなくなって久しいのは言うまでもないが、いつからかそんな視力低下と引き換えに、鮮やかに・美しく・くっきりと・詳細に“色”が見えるようになっていたのだ。
かつて言葉の遊びだと思っていた「(青ではなく)“紺碧”の空に浮かぶ(白ではなく)“白磁”の夏雲」などの表現を、この眼でしっかりと感じられる気がするのはちょいと感動ものだ。
何でそんなことがこの鈍感な私に起きたのか?
多分それは、残された時間が少ないのだからボヤっと日々を見逃さずしっかり味わえと促す、生命からのスピリチュアルなアドバイスなのではないだろうか。
そう、老人たちが周囲を見回しゆっくりと穏やかな表情で散歩するのは、そんな理由からだったのだ。
以来無意識に空を見上げたり、路傍の草花に目をやったりしながら、その微妙な色を楽しむようになった私も、周囲から相当ジジ臭く見えているのだろうなあ。

昔から仕事のお付き合いのある著名な編曲家の新川博さんが先日病に倒れ、死線をさまよった挙句、幸いにもお元気に復帰された。
生きることの尊さを痛感されたであろう病後の新川さんがFaceBookでリンクしていたYouTubeのある映像が、私の視覚変調をも説明しているような気がしたのでここに紹介しておく。
「A GOOD DAY」と名付けられたこの映像は、日本の禅僧のもとで仏教を学んだと言うオーストリア人の心理学者・スピリチャル学者のDavid Steindl-Rastさんが、ギフトとして与えられた一日の過ごし方を、美しい映像をバックに優しさで満ちた口調で語っているもの。
あなたもきっと、漫然と消費する時間のもったいなさと、今日と言う日の大切さを感じることだろう。
サボり癖と夏バテに負けそうだった私に、なんとかこの原稿を書かせたくらいなのだから。



「A GOOD DAY」

posted by 「HEART×BEAT」事務局 at 00:30| Comment(1) | 編集前記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月16日

20世紀ポップス

編集前記 BY ワダマサシ



過去を振り返り「あの頃はよかった…」なんて台詞は絶対言いたくないと思っていた。
そんなの今この瞬間を楽しんで生きてない証拠だし、未来への希望なんてありませんと白状してるみたいじゃないか。
でも、こと音楽業界の「あの頃」について語るとき、当時の目眩くような熱気を身体の方が思い出し、どうしてもそう呟きたくなる。
ああ、21世紀になって早いもので11年以上の月日が過ぎ去っていると言うのに、当時の輝きを昨日のように思い出してしまう。
大勢のスター達とそのスタッフ達が、手を変え品を変え「1曲」に全力で入魂していた日々。
ピカピカしてギラギラして…、そう「あの頃」は本当によかったのだ。

今から30年以上も前のこと、あれは新十年紀“80’s”幕開けを目の前にした歳末のある夜。
ソロアーティストとして不動の地位を築いてはいたものの、レコード大賞曲「勝手にしやがれ」以降次の大きな柱を建てられずにいた“ジュリー”こと沢田研二が、ピカピカの電飾を施されたミリタリールックに巨大なパラシュートを背負って歌番組に登場し、日本国中の視聴者の度肝を抜いた。
1980年1月1日発売シングル「TOKIO」。
「ここまでやるか…!」エンタテインメントを全身で体現したようなその姿に、お茶の間の誰もが口をあんぐりと開け脱帽。
当時私は地方営業所の販促を経てやっと帰京し、まだ東京のラジオキー局担当の駆け出しの宣伝プロモーターになったばかり。
もちろん、大衆と一緒にその姿をテレビの前でありがたく鑑賞する立場。
半端な歌手が試みたらチンドン屋になりそうな“仕掛け”を、粋にこなしてしまうキャパシティーに心底恐れ入ったものだ。
本物の「大スター」とその周りを固めるプロフェッショナルなスタッフだけが為せる、一か八かのギャンブルの様な仕業。
念のため言っておくが、あの頃は今のように一握りの限られたファンだけが知る曲をヒットと呼んだりしなかった。
YouTubeどころか、ネットそのものすらなかったあの頃。
情報伝達の機会と手段は上から下へのほぼ一方向、現代とは比較にならないほど限られていた。
だからこそ、音楽は大衆の生活の中心に近いところにしっかり寄り添っていられたのだ。
ジュリーは、あの時ターゲットとなる「全国民」にめがけ、賛否両論を知った上の確信犯として我が身をカメラの前に晒した。
大袈裟に言うと、あのパフォーマンスは、新時代のヒットとは何か?を大衆に問う大スターと言う名のファシストのプロパガンダだった。
案の定、放送の翌日に日本中の話題を「落下傘を背負った男」がかっさらっていった。
業界の端くれでディレクターになる日を夢見ていた私は、こんな凄い人達と勝負出来る訳がないと、心底不安になったものだ。
そんなインパクトからスタートした80‘s〜90’s、愛しき20世紀ポップスの爛熟期への幕開け。
同じく新時代の始まりの記憶に残るのは、ニッポン放送のオールナイト・ニッポンのヘビーローテーションでブレークした、もんた&ブラザーズ「ダンシング・オールナイト」。
深夜放送周りのLFのスタジオで初めて聴いた、あの“あざとい”サビ。
いわゆるアーティスト系のシンガー・ソングライターでありながら、リスナーの耳に必死に縋り付こうとする一発屋のハングリーな熱に、ちょいと震え上がったものだ。
同時期の二つの記憶から導き出される、当時の業界のただ一つの真実。――それは、ミュージックビジネスは「ヒット曲こそが全て!」。
そのジャングルの掟に従い、テレビを日常の舞台とするザ・芸能界も、そこと距離を置き斜に構えた風情のユーミンやサザンなど音楽界の人々も、結局は「1曲」の仕掛けに集中して日々骨身を削っていた。
そして、大衆もそれを心から楽しみにしていた。
だから「あの頃」はよかったのだ。

数年して希望が叶い、その掟の隸(しもべ)たるディレクターという重責を仰せつかったが、当初は社内外の業界の諸先輩方の吐き出す「毒気」にあてられ、業界をうまく歩くことすらできなかったっけ。
直属の上司はピンク・レディー他ですでに歌謡史に名を刻んでいた飯田久彦氏。(現;エイベックス取締役)
想像してみて欲しい。飯田さんは当時も今も心優しい方だが、オーディション番組の審査員席などでよく観るスターのオーラを持つ人物が上席に座る職場で、若者がいきなり伸び伸び出来るわけがない。
同僚と言えば、やがて音楽教科書にも採用された「少年時代」や「瑠璃色の地球」を作曲することになる川原伸司氏や、同期とは言えすでに小泉今日子などを担当していた若手花形ディレクターの田村充義氏など。
しばらくの間、そんな人と競争してヒット曲を目指すことを避け、「いいアーティスト」と「いいアルバム」を作ると言う手段を己のスタイルにするしかなかった。
それでも運良くそこそこの成功を手にした後、荻野目洋子というど真ん中のアイドルの担当を命じられ、魔界のような戦場に投げ出された訳だが、そこで学んだことは今も仕事の考え方の土台になっている。
思い出すのは、たった1曲のシングル候補曲のタイトルを決めるために行われた、赤坂全日空ホテル(今のANAインターコンチネンタルホテル)のラウンジでの夕暮れのミーティング。
その後、観月ありさ、MAX、安室奈美恵、SPEED、DA PUMP、wind-sなど、立て続けに多くのビッグアーティストを育てた若き日の平哲夫社長と、当時気鋭の作詞家として飛ぶ鳥を落とす勢いだった売野雅勇氏の間に入り、なんとか「六本木純情派」というタイトルに辿り着いた時には、赤坂の夜もトップリと更けていた。
激論は闘わせるものの、決定の全ては平社長の独断に頼るやり方だったが、それだけに尖って魅力的なものがいつも生まれていたように思う。
ともすれば双方の意見の間を取り、毒にも薬にもならない中庸のアイデアに落ち着く打ち合わせが多い中、あのやり方は新鮮だった。
魔界ではそんなやり方で勝ち抜いていくしかないことを、この時学ばせて頂いたような気がする。
あの頃、青山スタジオのコクシネールで、キャピタル東急ホテルのORIGAMIで、ホテルオークラのカメリアで、神宮前のカルデサックで、青山のガスコンで、西麻布のレッドシューズで、飯倉のキャンティで、そんなミーテイング、いやヒットという仕掛けを操る魔界の住人達の密会が、当時毎晩毎晩行われていたのだ。
それだけに、今度の○○の新曲は新人作詞家が書いていてこんな仕掛けらしいとか、今作曲家の××先生はA社一押しの新人の曲を書いている――などの情報は、様々なところから嫌でも耳に入ってくる。
それらを意識しながら、自らの仕事に反映させていくのもディレクターの重要な資質だった。
今のように闇雲に「いい曲をお願いします」と面識さえない無数の作家に大量に発注をかけ、ほぼ完成品のようなデモテープの中から好きに選べる時代ではなかった。
心中を覚悟して、これと決めお願いした作家と膝を付き合わせて1曲の譜面を練り上げるしかなかったのだ。
もちろん二股をかけさせて頂くこともあったが、その事後処理には礼を欠く事のないように細心の気を配ったものだ。
もちろん歌詞も同じこと、タイトルの決定はおろか、ほんの少しの手直しまで、ボーカルダビングのスタジオにまで作家が詰め、納得するまで改良が加えれた。

オケのレコーディングも、現代とは隔世の間がある。
今のように、サンプリングされた出来合いの短いフレーズをマウスでペタペタ切り貼りして4小節のパターンを作り、それを好きなだけ繰り返し「はいオケ完成!歌は適当に歌っといて、最後にエディットするから」と言う時代ではなかった。
機材さえあれば、そんなトラックメーカーには一日でなれるだろうが、編曲家はそうはいかない。
こんなことを書くと、いま活躍されているトラックメーカーの方々からご批判を受けるかもしれないが、私は今のやり方でも素晴らしい作品には変わりなく敬意を払っているので、誤解なきように。
さて、当時打ち込みのレコーディングも始まってはいたが、スタジオミュージシャンによる生演奏があの頃の基本。
なんらかの楽器を操ることはもちろん、楽器・楽典を熟知し、ミュージシャンの資質を熟知し、レコーディングのなんたるか、業界のなんたるかを、知り抜いているスタジオ内の支配者。
そんな編曲家との打ち合わせも、ディレクターの重要な仕事の一つだった。
参考資料を集め、プロを相手にこちらの趣旨を完璧に伝えきるには、それなりのポップスへの造詣と愛情がなければ不可能。
阿吽の呼吸で意図を伝えることが出来る共通言語を持つ編曲家を見つけ出すことが、ディレクターの資質の一つだったかもしれない。
私にとってのそんな人々は、清水信之氏、新川博氏、西平彰氏、鷺巣詩郎氏、水島康貴氏などだった。
彼らとアレンジの段取りを整え、それらすべての調整を魔界の人々達と精密に行い、オケをレコーディングし、ボーカルを完成させ、ミックスし、一遍のヒット曲候補に仕上げる。
その作業は決して花形の横文字職業のイメージではなく、夢見がちな錬金術師の類と言ってよいほどだった。
でも、私はあの頃のやり方が圧倒的に正しく感じられ、それだけに懐かしく思い出されてしまうのだ。

CDパッケージの陳腐化など音楽業界を取り巻く環境の劇的変化のせいで、多くのアーティストが「ヒットさせること」を半ば諦めてしまっているように思えるのは、私だけだろうか?
ヒットさせることが難しくなっていると言う理由で、「狙っていないもの」つまり「一曲に入魂していないもの」でいいのだと妥協してはならないと思う。
日本中津々浦々に鳴り響くヒットなどもうないのだと完全にあきらめ、それぞれのサロン化した固定ファンに向けて可も不可もないそれなりの曲を申し訳なさそうにリリースする。
そんな去勢されたやり方を良しとしてしまったら、益々先細るに決まっているのに。
いま圧倒的に結果を出している数少ないプロジェクト、AKB48や、EXILE、perfumeなどの中にも、私はしっかりと「20世紀ポップス」の香りを感じている。
それは、秋元康、HIRO、中田ヤスタカと言う一曲入魂を知るプロデューサーの力にほかならない。
しかし巷の津々浦々にまで浸透し誰にも愛されているか?と言う点で、「あの頃」とは比較にならないような気がするのも事実だ。

ジュリーが落下傘を背負ってテレビに出てから数十年の時を隔てた、2011年初頭のある日のこと。
縁あって近年再び一緒に仕事を始めたビクター当時の後輩ディレクターとともに、私は彼のスタジオのコンソールの前でYouTubeが映し出す沢田研二の華のある勇姿をボンヤリと眺めていた。
後輩の名前は野澤孝智――今はフリーだが、ずっとSMAPを手がけ日本でもっともポップスを売ったプロデューサーの一人だ。
彼もまた、いまだに「あの頃」のポップスの一曲入魂の作り方にこだわり続ける同志。
このスタジオに出入りする仲間であるEXILEのシングルなどを手がけるFace 2 fAKEの二人に引き合わせてくれたのも彼だ。
Face 2 fAKEのOh!Beは日本ポップス界にその名を刻む筒美京平氏のかつての愛弟子、相方のAchilles Damigosは私のソニー時代の同僚が制作を担当していた元アーティストだった。
この二人もこよなくポップスを愛し、一曲にありったけの魂を込めるタイプのプロデューサー達。
「なあ、DaBaDaにしない?」
皆で一緒に立ち上げようとしていた配信のみのオーセンティック・ポップ・レーベルの名前は、この場で決まった。
目の前のモニターでは、沢田研二が阿久悠氏作詞の「酒場でダバダ」を歌っていた。

20世紀ポップスの担い手として、DaBaDaが送り出したSee Stars Crew(シー・スターズ・クルー:シスクル)の誕生については、また次の機会に…。

posted by 「HEART×BEAT」事務局 at 12:41| Comment(0) | 編集前記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月21日

フリー音楽時代の音楽ビジネス

編集前記 BY ワダマサシ


閑散としたCDショップ店内。

長いこと病床に臥せていらっしゃった私の仕事のパートナーのお父様が過日お亡くなりになり、その葬儀に参列させて頂いた。
わが相方は華やかな経歴を持つ音楽プロデューサーであり、多くの業界関係者が弔問に訪れていたが、その中には何年振りで見る懐かしい顔も。
これは故人に引き合わせて頂いた貴重な機会と感謝しつつ、式の合間に近況の情報を交換し合った。
皆が口を揃えて訴えるのが、そら恐ろしいほどのCDパッケージ市場の不振。
それどころか、配信マーケットさえも頭を打っているのでは?と言う見方さえあった。
やはり「音楽そのものを単体で売る」と言うビジネス・スキームは、やがて崩壊する運命なのだろうか。

まだ頑張って積極的に音楽制作に投資しているのはいったいどこなの?と、久しぶりに会ったベテランのインスペクター(通称:インペグ、ミュージシャンなどをコーディネートする職業)に尋ねると、即座にアニプレックス(ソニー系)、フライング・ドッグ(ビクター系)、ランティス(旧バンダイ系)などの名前が上がる。
いずれもアニメ・ゲーム・声優関連に特化したブランドであることが、現状を物語っていた。
つまり、ミュージシャンを雇うような高額予算の音楽を単体で企画し値札をつけポイとマーケットに投入する時代は終焉し、主題歌、劇中歌、サウンドトラック、ゲーム音楽など、企画の段階で明確な「用途が用意された音楽」しか、ビジネスとしてペイしない事がはっきりしてしまったのだろう。
映像コンテンツに挿入するなどの主たる目的を立派に果たした後に、「音楽単体の売上も多少付加される」ぐらいにどっしりと構えられなければ、とても投資できないってとこか。
これは、音楽そのものを売りたいレーベルサイドが著名アーティストの曲をドラマ主題歌やCMソングに押し込む、ちょっと前までの「タイアップ戦略」とは似て非なるもの。
今や、アニメやゲームの「タイトル」こそがファンドを含めたビジネスの「メイン」で、その中で誰がどんな曲を歌うかは、それがたとえL'Arc〜en〜Cielであったとしても、それ自体では大したビジネスにならない「サブ」情報に追いやられてしまったのだから。

たしかに、貸レもある、YouTubeもある、自宅でCDも焼けると言う時代に、聴いてもらう以外に使用目的を持たない音楽に闇雲に投資し、一か八かでハイリターンを期待することのほうが無謀なのは明白なこと。
逆に考えれば、いま混乱の中から生まれつつある新しい音楽業界のスキームの中で、新たなアーティストを成功させるには、「CD以外」にビジネスとして明確に成立させられる場所・手段を持つしか手がないと言うわけだ。
従って、これからのアーティストに求められるのは、収益を支えるグッズ物販の主戦場となるコンサート会場やそのチケットを優先的に販売するファンクラブ組織にリスナーを呼び込めるハイレベルな「パフォーマンス」であり、音楽以外にCMや映画などのエリアでも存在しうる「マルチな才能」なのだろう。
そのいずれもが、かつて音楽ビジネスの中心に君臨した「レーベル」のマターではないところが、この激変期の動揺の核心なのだ。

ジャニーズ関連のアーティスト、EXILE、浜崎あゆみなど、現在ビジネスで大きく成功しているひとにぎりのプロジェクトのどれもが、収入の多くを音楽そのもの以外に委ねている。
ミリオン連発のAKB48は唯一例外の様に見えるが、「CDを割り切ってグッズ化」することでこの変革期に対応しているだけ。
誰が見ても握手会参加券付きCDではなく、CD付きの握手会参加券の販売に外ならない。
いずれにしても、これらのアーティストが莫大な人数のオーディエンスを動員出来ることがビジネスの全てを支えていることに変わりはない。

しかし、音楽が単体のビジネスとして完全に成立しなくなった近未来においても、間違いなく新しい音楽は制作されるだろう。
その時、それは肖像やプロフィールと同じように名刺替わりに「フリー」で流通し、アーティストを周知させ、ファンを作り、コンサート会場へと導く役目を果たすはずだ。
つまり「集金」のスキームと場所が変わっただけで、音楽制作者のすべきことは何も変わってはいない。
ひたすらリスナーに受け入れてもらえるコンテンツを企画し、それを美しく魅力的に記録することのみ!
そう信じて前に進まなければ、何も生まれない。
「フリー」になったとしても、音楽そのものが手抜きで陳腐化すれば文化が滅びてしまう!と、せめて使命感を持って事に当たらねば…。




30年以上も前から今日を先見していたかのような、
グレートフル・デッドの「フリー」マーケティング戦略。
業界で話題沸騰。
posted by 「HEART×BEAT」事務局 at 13:54| Comment(1) | 編集前記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。